2017年(平成29年)12月20日 「かわしり遍路」4

 

薩州墓のあるお寺

 

 バス通りの川尻四ツ角交差点を東に折れ、通称、横町筋に入るとその突き当りに見えるお寺が無動山

延壽寺(川尻五丁目五-一)です。今から八百年前の建久八(1197)年河尻の地頭、河尻三郎実明(さねあき)によって建立されたとされ、河尻氏の祈願寺です。山門を入ると古色蒼然とした本堂の前に広がる境内には四季折々の草花が咲き乱れ、大きな「西南役薩軍戦没者墓碑」、「薩軍本営並野戦病院跡」、豪潮禅師建立の「宝筺印(ほうきょういん)塔」の3つの石碑が目に飛び込みます。歴史の大変革の苦難を味わいながら、仏道を全うした第三十代住職、伝弘応師(でんこうおうし)の言動、そして「義のためなら、百万人といえども吾行かん」戦いに臨んだ薩摩兵士の心情、さらに、惻隠(そくいん)の心で負傷兵の治療・看護に奉仕した川尻の人々。

 

 日本最後の内戦は、明治十(1877)年、県内では熊本城・段山、植木・田原坂等で壮烈な激戦を展開しますが、旧薩摩街道筋に当たった川尻町は、必然的にその戦いに巻き込まれました。薩軍の本営が置かれ、北上を開始した1万を超える薩軍兵士と多量の弾薬や食料、それに伴い川尻では疎開する人、薩軍に味方する人、政府軍につく人、中立を守ろうとする人と混乱も起きました。西南戦争は、二月二十二日の熊本城の戦いで火ぶたが切られ、熊本城西門側の段山の戦いや田原坂・山鹿口、高瀬とへと広がり、同時にそれらの激戦で負傷した多くの薩軍兵士が川尻町に搬送され、町のお寺と大家合わせて118か所が野戦病院になります。町挙げての救護が行われたのです。

 

 西南戦争前の二月十九日には征討令が発せられ、薩軍の立場は賊軍となり、薩軍傷病兵の看護はもとより、戦死した薩軍兵の埋葬は、難しいものがあったと思われます。この中で延壽寺の伝弘応師は当時、28歳。若い住職は「死者を弔い供養するのは僧の勤め」とし、853人の戦死者の氏名・日時・場所を記載の上、寺領に埋葬、供養したと言います。伝弘応師は、後日の政府軍の取り調べに対して「死者には賊軍も政府軍もない、死者の埋葬、供養に悔いることなし」と述べたそうです。

 

 毎年四月、桜花爛漫の頃、延壽寺の境内には薩摩・大隅・日向出身の関係者で作る熊本三州会主催の西南役薩軍戦没者慰霊祭が執り行われます。横町の方々は各軒先に半旗を掲げ、遠く鹿児島から参列に訪れる遺族らに哀悼の意を表します。そして、慰霊祭には川尻町内からも例年多くの関係者が参加します。

 

 戦没者の慰霊碑は大正五(1016)年に建立され、同年に第一回慰霊祭を挙行、一昨年の平成二十七年には、第百回を数え、新たに薩軍戦没者の氏名が刻まれた銘碑が作られました。亡くなった薩軍兵のほとんどの遺骨は遺族関係者に引き取られましたが、慰霊碑の一角には、今も引き取られることのなかった8つの墓石が静かに横たわっています。

 

 薩軍戦没者の慰霊に関わった伝弘応師、負傷兵の治療に当たった川尻のお寺や町民の方々の博愛の心こそ、同じ自由民権を標榜(ひょうぼう)した義烈の人たちが、立場の違いによって戦った西南戦争の中にあっても「人を愛する」という薫り高い出来事ではないでしょうか。

                                        

荒金 錬一

 

注1.延壽寺

 天台宗。河尻実明の建立で開祖は快智法印氏、本尊は不動明王。天保二(1831)年五月の大洪水で、本尊以外はすべて流失しますが、藩の助成を得て天保八(1837)年再建された。

注2.西南戦争

 鹿児島の私学校生を中心とした薩摩士族たちが、征韓論に敗れ下野した陸軍大将西郷隆盛を擁して政府軍と戦った武力反乱。丁(てい)丑(ちょう)戦ともいう。二月二十二日から九月二十四日の西郷隆盛の自刃まで七ケ月間に亘り、国を思う純粋な若者たちが血戦を繰り広げ、政府軍6923人、薩軍7186人が戦死するという「涙しても止まない」痛ましい戦いでした。

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。